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思ったこと・学んだこと

アニメFGOの藤丸立香とロマニの名言は哲学チックですね

Fate/Grang Order‐絶対魔獣戦線バビロニア‐エピソード11にて

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ケツアルコアトル「あなたが求める皆の幸せはただの傲慢かもしれない」

という問いに対して、

藤丸立夏「それでも俺は自分の決断を、俺を信じてくれた皆をを信じる。その答えはすべてが終わった後に分かるはずだから。」

 

マシュ「人間に、いえ生命に意味はあるのでしょうか?」

ロマニ「神様視点で見るとどれも無意味なものに見えるかもね。でも人間の生きる意味とか価値とかそんなものはないよ。最後までね。意味を持たないまま人間は生まれ、育ち、寿命を迎える。そうして終わったときにようやくその生命がどういうものだったかという意味が生まれる。これを人生というんだよマシュ。僕らは意味の為に生きるんじゃない。生きたことに意味を見出すために生きているんだ。」

 

これらのやり取りを聞いて実存主義ないし、ジャン・ポール・サルトルの考えと一致していると感じた。

実存主義とは、人間とは「本人が望む以上の自由と責任を負わされた存在」であると唱えられている。これは今の社会に生きる人たちは良く感じるのではないのだろうか?

例えば、周りの家族によっていい大学に行きなさいや、いい企業に行きなさいなど周囲にいる人に、自分が望む望まない関係なく責任を負わされている。とはいっても、最終的に決めるのは自分自身であり、それ故にあまりに巨大すぎる期待という名の責任に押しつぶされそうになっている人は多いでしょう。

・それに対して、ジャンポールサルトルはこう発言している。「人は自由の刑に処されている」「人の運命はその人自身の中にある」

要は人間がどんな存在であるかは「どう生きるか」によって定義されるのであって、あらかじめ運命づけられているわけではないということです。これは自分の生まれに対し負い目を感じている人や、過去の自分に対して負い目を感じている人、将来を不安に感じている人を勇気づけられる考え方ですよね。

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・物語の最後に藤丸が苦しいこともあったけど 楽しかったと述べていることは、自分にしか人理を修復できないというように義務感で取り組むのではなく、周りの人たちのために自分のできること、自分のしたいことをめいいっぱい取り組んだゆえの結果だと思います。

・文明が発達して自由の幅が広がった人類の皆がその「どう生きるか」に対して自分に対しても周りの人に対しても、少しでいい、少しでもより良くなるように行動出来たら世の中はもっと素晴らしいものになるのではないでしょうか?私はそう思います。